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2012年9月17日 (月)

長沙市

ニュースを見ていると中国でデモが荒れている。南部の都市長沙の映像も映る。漢方の原典傷寒雑病論は漢時代の長沙の知事が書き上げた物だ。日本では其の書物を大事にしより深い解釈をと生涯を掛けている人々が居る。同志よ対立する事はないではないか。

観今之医不念思求経旨以演其所知各承家技終始順舊省疾問病務在口給相対斯須便處湯薬按寸不及尺握手不及足人迎趺陽三部不参動数發息不満五十短期未知決診九候曾無髣髴明堂闕庭尽不見察所謂窺管而己

夫欲視死別生実為難矣孔子云生而知之者上学則亜之多聞博識知之次也余宿尚方術請事斯語

                                    漢長沙守 南陽張機著

訳を方術説話から引用すると
当世のお医者さんを観て見るのに殆んど大部分の者が経書を研究しその中から原理を発見してそれで自分の知識をひろめたり又は其の術を委しくしようなどとは思わず皆一家の技術を承け次ぎ之を一番良いものとして始から終りまで一歩も其の範囲から出ようとはせず、病人に対応する場合でも弁舌を巧みにすることだけに身を入れて診察などは至ってお粗末で良い加減に湯薬を与へ脈診にしても足までとは行かない迄も手の三部を看るようなのは頗る上等の方で大概は一寸寸口にふれる位が関の山で尺中などは看ようともせず、まして人迎、趺陽を参考にすることなどは思いもよらず、動数發息を五十迄は数えず従って短期の診などは解らう筈もなく、九候の見分けはもとより明堂、闕庭などには及びも付かず、いわゆる葦の髄から天井をのぞくの手合計りである。

診の精を尽しても死生を見分けると言うことは実に容易ならぬことである、孔子の語に生れ乍らにして之が解る者を上となし学に依って之を得た者を其の次となし多聞博識の者は其の又次とすると云うのがあるが自分は以前から方術を尚んで居るが基から此語を奉じて常に之を服膺し飽くまで学の道に進もうとする次第であるからこの書を読んだ諸君も同じく孔子の語を奉じて此の道に進んで貰いたい。

                                 漢の長沙の知事 南陽張機著

次のURLは序文のはじめと続きですが今日のブログとの間にもう少々文が有ります。
http://blogs.yahoo.co.jp/sanpoman3/9291984.html  

http://blogs.yahoo.co.jp/sanpoman3/9356011.html

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コメント

自動車の運転教習所で一通り運転できるようになっただけでいっぱしドライバーになったつもりでぶっ飛ばすようなものですね。

佐平次さん 原典を読まずメーカーの安易な説明を聞き理解していると思っては大間違いです。長いこと繰り返しているととんでもない所と繋がったり或る生薬と違う生薬が共通したり面白みは多いにあります。
このヒントを与えてくれる方術説話の著者が我々の職業の人だったことは小生には良かったのですが世間が方術を解釈するには如何だったのでしょうか?

ご近所付き合い(年代が違う人達)で、私が備わっている理性の違いに自信喪失。。。。。。。。。。
という事があります

ユメフーセンさん 自分の利益に成れば嘘で他人を非難し蹴落としても自分の思いを実行する輩を小生も知っています。

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