中書島散歩
石清水八幡のある男山から降りてきて駅前の観光地図を見ると麓にも多数の神社、寺があるようだが暑さで行く気はない。
しかし以前、中書島から寺田屋、月桂冠の大倉記念館を見学しようとして果たして無いので其方に行く事にした。チェックインが2時からなので早く入って一風呂浴びさっぱりしたかったから短時間で見学できる所がベストだ。八幡市から二つ目の京都よりの駅が中書島だ。早速構内のコンビニでお茶を買いながら寺田屋を尋ねるがアルバイト店員はわからない。駅員に聞くと駅前の一本道で500mも行かないで行ける道を解り易く教えてくれた。
川沿いに月桂冠の酒蔵が有るので酒を運ぶ運河として使っていたのであろう濠川という川を渡った次の道の左手に寺田屋はあった。
上の写真の建物の表の道、斜め前が寺田屋。
幕末1862年から4年間に寺田屋事件が2回と池田屋事件が1回起きている。寺田屋は薩摩藩京都の常宿だった。
1862年の寺田屋事件は薩摩藩の内紛で若者の尊皇攘夷の過激派を藩主を隠居した島津久光は公武合体の穏健派だった為に説得しようと鎮撫の者を派遣した所切り合いになって過激派の有為な若者9名を殺してしまった。年が若く20にも満たなく謝罪し後に許された者の中には大山巌元帥日露戦争陸軍司令官や西郷隆盛の弟西郷従道などが居る。
(1864年には京都市中で池田屋事件が祇園祭の最中に起きる。商人に変装していた長州藩士古高俊太郎を新撰組が捕らえ謀議を聞き出す。探索の結果12時近くに長州藩士、土佐藩士等が集る池田屋を探しだし三隊に別れ探索していた近藤勇以下僅か10名が切り込む。後年永倉新八が書いた浪士文久報国記事には沖田が喀血し戦列を離れ、藤堂が額を切られ戦線離脱するさま。近藤と永倉が苦戦しながら互いに助けられない様子が書かれている。庭で逃げる浪士藩士を待っていた隊員3名が切られたが近藤勇、永倉新八、武田観柳斎の活躍で30名の浪士藩士を捕らえた。新撰組の名が一挙に知れ渡った。
その時の報酬が近藤30両、永倉20両、沖田20両、藤堂20両、武田20両と言う。幕末は貨幣価値が下落し1両2600円という資料がある。割に合わない。
池田屋は寺田屋とは関係無いが小生の中でごっちゃになっているので整理した。)
1866年の寺田屋事件は西郷隆盛の紹介で寺田屋に逗留していた坂本竜馬が伏見奉行所の者に襲われ妻のお龍が入浴中に気付き裸で2階の竜馬に知らせたと言う有名な逸話の時だ。その後竜馬とお龍はその時に負った竜馬の怪我の治療に薩摩に趣く。これが日本で初めての新婚旅行と言われている。
お龍が入っていたという風呂桶
駆け上がった階段
2階は竜馬の書で一杯だ。この建物は現在も宿として使用されていると言う。当時の寺田屋は鳥羽伏見の戦いで焼かれたと言う説が有力だ。
当時竜馬が持っていたスミス&ウェッソン、高杉晋作に送られたという。小生は中田商会でスミス&ウェッソンの銃身の短い掌よりチョイト大きいモデルガンを買った事がある。
幕末は20才位の全国の若者が佐幕であったり倒幕であったり命がけで自分の藩、江戸、京都を走り回り意見を交換し行動をした。多くの有為な若者が惜しい命を落とした。
太平洋戦争に於いてもそうであったし、復員してきた若者が戦後の日本を作ったのも事実だ。我々は彼らの作った豊かさに乗って楽に過ごしてきてしまった。
三条小橋北側ニテ池田屋ト申旅籠屋アリ、右ノ内ニ長州人居ル趣表廻リハ厳重ニ固メ夫よりマカリイル人は近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助、表口よりマカリイル、鉄炮、鑓沢山是有縄ニテ搦ム、玄関ラシキ所ヘ参リ亭主ヲ呼出シ、今宵旅宿御改メト申ス
その段の最後に報奨金にふれている。(朝廷ヨリ)新撰組一統江金三百両賜ル、於幕府刀料并ニ金五百両一統江頂戴ス、松平肥後守様より一統江弐拾五円宛被下ル也。
円は永倉の筆記のママ。
ひらがな、カタカナは永倉が書いたまま。
マカリイルは門構えに内と言う字だが変換できなかった。以上は大正時代まで生きた永倉新八の浪士文久報国記事より抜粋。
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寺田屋と池田屋、私もしょっちゅう間違えます。
革命とか激動期の人材の歩留まりは悪いですね。
投稿: 佐平次 | 2013年7月19日 (金) 10時34分
佐平次さん 一方普通の人はガンバラナイをモットーにしないと身が持ちません。
投稿: 江戸川風景4 | 2013年7月19日 (金) 12時33分