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2014年6月29日 (日)

鑑真和上は冷遇されていた。

鑑真和上像を参拝し其の時代の事を知らないでブログを作った。ブログを読んだ独りから永井路子氏と唐招提寺の深部まで伺った事が有るとメールを貰った。では永井路子氏の鑑真についての「氷輪」上下を読んでみようと求めた。

其の時代の文献や現学者の意見を精査し確認しながらの文章は読者の無知が因で読みにくかったが力作だ。

鑑真が来日した時代の権力争いをバックに権力に関係した僧達を書いてある。

聖武天皇に唐招提寺を用意されて唐から三顧の礼を以ってよばれたと思っていたが違う。

11年間に5回の渡航に失敗し6回目にやっと日本にたどり着いたのが66歳の時だった。滞在10年で76歳で亡くなっている。

受戒し5年間懸命に学びやっと僧としての出発になるという。(蛇足だが小生も漢方の塾に入門した時10年やって初めて門口に立つと言われた。)

東大寺に迎えられるが其れを作った良弁が宗教界を牛耳っている。良弁が都入りした鑑真に貴国にこんなに大きな大仏が在りますかと聞くが仏教の本質を求める鑑真には興味のないことである。言葉も十分に通じないし在来の僧達も素直に聞こうとしない。其の上聖武天皇が亡くなり藤原氏と天皇家の権力争いが露になり戒律どころではなくなる。

鑑真は東大寺を離れ西の京の粗末な民家に移ることになる。国家に密着した異国の仏教に嫌気がさしたのか良弁に追い出されたのか?当時の大きな寺は国が造っていたが私人の律研究所という扱いだ。国で建てた寺院には領地があり学ぶだけで生産性のない僧侶の生活を養っていたが唐招提寺は私の寺院で鑑真が聖武天皇から賜った僅かな領地で研さんに励んでいた。

唐から一緒に来た法進は東大寺に残り戒律の経の素晴らしい解説を造るが現在になるも顧みられていないという。深く仏教を理解するというより学を着けると権力に取り入ろうとする行為が多かったようだ。

それでも平城京の東朝集殿が移築され講堂となり仲麻呂の住宅が食堂として移されたり段々形を整えてきた。唐から鑑真と伴に来朝した20数人の僧達が戒律と仏教の真髄を学んでいた。

聖武天皇の子が女帝孝謙天皇になるが実権は藤原仲麻呂が握っている。孝謙天皇に恋愛感情を持たせるようにしながらプラトニックに終始する。淳仁天皇に譲位し皇太后として実権握っていたが大病しその時祈祷したのが道鏡だ。精神病をやんでた皇太后は枕元で目を開けるといつでも祈祷してくれている美男の道鏡にぞっこんになる。仲麻呂に満たされなかった部分まで貪るようになった。

其のことを諌めた淳仁天皇と皇太后が対立し天皇の後見人の絶対権力者の仲麻呂がまさかの敗退をし皇太后が称徳天皇として復帰し道鏡を天皇位に付けようとするが宇佐神宮のお告げにより頓挫しなお道鏡を法王にしようと画策していた称徳天皇が急に崩御し騒動は治まる。

仏教会の反省と目覚めた一部の日本の僧達が仏教を真摯に学ぶ姿勢を表し鑑真の死後15年経って金堂が賜った古材で出来たという。

(鎌倉時代の道元は時の執権と対面した弟子が領地を貰って来たのに激怒して其の弟子の定位置の下の土を何十尺も掘り捨てさせ破門にしたという。権力と結び付かないよう教えていた。「学童の者貧なるべし。」の言葉もある。)

異国で学んできた戒律を同調者の少ない中、護り通した唐の僧達の感動する物語だ。戒律を守り研鑽すれば政権におもねないでわが道を行くのは当たり前の行動だ。

後半に東大寺に残った法進に来日当時は年齢が達しないで授戒していなかった如宝が立派な僧になり面会に行く場面があるが年老い衰えた法進が熱が下がらないので朴硝を服んでいるという記述がある。文献を検討してのことだろうが頷けない。東洋の薬の道も終りの無い道をトボトボ歩くのは同じ気がする。

中国の揚州を旅したことのある友が揚州では現在も鑑真は大変に尊敬されていると言っていた。

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