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2015年11月17日 (火)

竹内 啓の碑

戸定邸で慶喜・昭武兄弟の親交の資料を見た折今回の旅のトレーニングの一環として遠回りして帰ることにした。薄暗くなった戸定邸の裏の林を下るとちょと高台で平らになった所に石碑が二つある。

一つは真言宗信仰の空海像の線画が書いてあり秀海講とある。もう一つは竹之内啓之奥城と書いてある。子供の頃から見ていたが石碑は重々しい感じが有り興味は有ったが何だろうと追及はしなかった。
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上図左側が竹内啓之奥城と書いてある。奥城は墓の意。

竹内啓とは何者か?慶喜が大政奉還をした年三田の薩摩屋敷には草莽の志士たちが集まり勤王の世を実現するため江戸市内でも騒乱を興し東海道、中仙道と奥州街道でも反乱を呼応し江戸を混乱に陥れようとした計画が有った。赤報隊という武士以外でも志のあるものが積極的改革に参画した。豪農の子、漢学者、医師、僧侶、岡っ引きと知り合いの博徒、浪人等が討幕を旗印に戦った。赤報隊の隊長は茨城県取手の豪農の長男、幹部に鎌ヶ谷市の豪農の倅の名もある。竹内啓は入間市の名主の長男で漢学者で医師、平田篤胤を信奉する国学者でもあり剣術も強かった。

赤報隊本隊は官軍の先駆けとして中山道を上ってきたが官軍上層部から官軍とは関係ない盗賊だと罪人にされ上諏訪で捕縛され死刑にされた。隊長相良総三の濡れ衣を晴らそうと孫が奔走する話が長谷川伸の「相良総三とその同士」に詳しい。

竹内啓は奥州街道で乱を興す隊長として栃木の大平山、岩船山方面に出陣するが事前に幕府軍に察知され、その上火器を持たない改革軍は為すすべもなく敗れる。
生き延びた隊士は三田の薩摩藩邸に戻ろうとし竹内も街道で捕まってしまう。
竹内啓は捕えられ松戸に護送されてきたが幕府が三田の薩摩邸を襲うとのうわさが流れ松戸辺りにも勤皇の志士も多く竹内を奪還されるのではと処刑してしまう。日光街道は奥州街道を行く道と松戸、野田を通り結城に抜け日光に行く街道と二通りあった。

世は代わり薩長の世の中、啓は下記の人脈で正義の輩として罪人にはならなかった。相良は維新に功績のあった人物に陥れられたので汚名挽回は生易しくは無かった。

薩邸の糾合所に屯集している浪士隊の最高幹部が入間の人で明治三年三月松戸に碑を建てて竹内の事績を普及たらしめんとした。

啓は、本名を小川,通称を節斎といいて、武蔵野国入間郡竹内村の人なり、故姓を更めて竹内とぞ云いける。弱冠より倭漢の書読む事を好み、医をもて業とせり、為人(ひととなり),忠に勇(つよ)くして国を憂うる志深く、嘗て思えらく、医たらんもの、人の病をのみ療(おさ)めて在るべき物かは、今国いたく病みて、蒼生苦瀬に落むとす、何ぞ救わざるべきと,去る慶応三年といいし年の冬、相良将満、水原直亮(落合源一郎=落合直文の養父)と相謀りて、同志の人々と共に、江戸なる某の館に屯し集い、殊に策を設て、西山尚義、会沢元助等と下毛野に下り、磐船山に旗揚せんとせしかども時の到らざらりけむ。予めに事露れ遂に賊徒に被打破、同年の十二月二十四日、年四十にして此下総松戸の里にて、はかなく死たりしは、最も悲しき事になむ。今その霊を慰めまくと、親族と議(はか)りて、其国の為に身を委任、心を尽したる所由を、石に勒し、幾千歳の後に将伝とするを、見む人疎略にな思いそ。
明治三年と云う年の三月
                   啓と同郷の友たる
                                苅田 積穂

竹内は憂国の士として早くから靖国神社に祭られるが相良総三は昭和になってから贈位により無実の罪を晴らせた。 孫の木村亀太郎の血のにじむ一生をかけた苦労が実を結ぶ。

誰が何時此処に建立したか移動したか解らないが徳川様の居住地だった処にこの碑があるのも不思議なことだ。

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コメント

国医、という言葉があったような気がして調べたけれどみつからない。
勘違いですかね。

佐平次さん 上医医国 中医医人 下医医病という言葉あるそうです。

勉強になります。
10年以上前観光大使の石上さんから説明を受けた筈でしたがすっかり忘れてました。
改めて勉強しようと思います。

ぺんぺんさん 赤報隊の副長は渋谷某で子孫が鎌ヶ谷で米屋をやっているという。佐幕の新選組があまりにも有名だが勤皇の平民もいたようだ。

調べてみると、渋谷総司は佐津間村の名主の次男で、佐津間は現在の鎌ケ谷市の六実の近くのようですね。
戦前の六実ゴルフ場付近そして、藤ヶ谷ゴルフ場あたり・・・現在の自衛隊の敷地。
そう思うと非常に身近な感じがします。
旧幕府側の新撰組、新政府側の赤報隊・・・ながらも、変遷もあったようですね。

ぺんぺんさん 渋谷さんはロータリークラブ会員で赤報隊副長は身内だと聞きました。

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