戦の浜 須磨の浦公園
治承8年(1184)2月7日戦いは始まる。
2月4日は清盛の命日、湿っぽくては相国殿も喜ばぬと管弦を奏で敦盛も青葉の笛で加わる。
後白河法皇の休戦の使者が現れ平家は厭戦の気持ちが蔓延する。浜を進軍してきた範頼の軍は知っていたかもしれないが山中を行軍してきた義経は知る由もなし。
7日早朝に生田口、塩屋口と夢野口で戦闘が始まる。生田口、塩屋口とも堅固な柵に阻まれ攻め込めない。生田口では河原兄弟2名が抜け駆けし我こそは一番乗りと名乗るが相手にされないどころか強弓の武者に射られてしまう。塩屋口では熊谷親子と他3名が抜け駆けし我こそは一番乗りと騒ぐが相手にされない。熊谷直実の嫡子直家が肘を射抜かれてしまう。三口とも容易くは破れない。そこに義経の逆落としがあり塩屋口が破られ連鎖で生田口、夢野口と突破され戦いの決着がつく。
須磨浦公園駅に行く。駅の近くに敦盛塚がある。戦いの一番の悲劇だ。
調べによると鉢伏山と鉄拐山の中間から逆落としをしたとの説も有力という。ロープウェイで鉢伏山に行き少し登り逆落としの処と言われるところを歩こうと計画していたが昨日からの雨で道はどうかと心配する。細い尾根道で急な下りで両側は崖とある。ロープウェイの職員にまた山頂の茶屋のおばさんにも安全を確かめるも一笑に付された。水はけの良い砂地に近い道はぬかるみもなく締まって歩きやすい。何時もの過剰な気の使いように家族三人で自笑する。
鉢伏山の奥に旗振山があり其処にこんな案内が有った。摂津の国と播磨では随分違ったのだろう。
六甲ハイキングコースの入り口らしい。須磨アルプスと有った。鎌倉アルプスは何回も歩いた。
標識を案内に不安を持ちながら進む。逆落としの場所と安徳天皇内裏跡を目指して歩く。これよりも細い道なき道を騎馬70騎が寒さのなか声を上げずに進軍するのは考えられない。
此処から見下ろし一気に攻め下った。
逆落とし坂はここだとの説が有る。
急な階段状の坂を慎重に下ると住宅地になり公園の中に安徳天皇内裏跡がある。ズーット海上で暮らしていた安徳天皇、建礼門院、二位の尼に地上でくつろぐように用意されたが使われなかった。
浜に出ると戦の浜の碑がある。浜は狭い。
天皇の策略で権力を持った平家が強くなり過ぎ追われ源氏が力を付けるまた追い落とそうと権力者の気まぐれで多くの命が失われる。平の何某の墓が彼方此方にあるが空しいことだ。
電車を乗り継ぎ高速長田に行く。生田口を守った知盛、知章親子を弓で防いだ監物太郎の墓、源平勇士の碑と見学する。
長田から中央卸市場駅に行き清盛が大輪田の泊を造るに苦労し人柱を弔ったという来迎寺を訪ねたがちょっと違和感のある建物だった。人柱となった松王小児や祇王姉妹の墓が有る。日宋貿易で富を得た清盛は知恵者だ。
このような岩を沈め築港した。石椋と呼ぶ。
帰りが16時43分新大阪発の「こだま」なのでそろそろ打ち上げとする。足も限界だ。
雨の予報も歩くに支障がなく子供のころあこがれた源平の古戦場を訪ね物語の世界を夢見心地で歩いた。
本町クリニック循環器内科・内科5月10日より火曜日15時より19時まで診察します。
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同じ源氏ゆかりの地の鎌倉をぶらぶらと15000歩で音をあげてしまいました。
さすがに日頃の鍛錬が違いますね。
娘さん、やさしいなあ。
投稿: 佐平次 | 2016年3月21日 (月) 09時52分
佐平次さん 娘のお陰で電車もスムーズに乗れ助かりました。
投稿: 江戸川風景4 | 2016年3月21日 (月) 12時39分
お疲れ様でした。湿っていたけどそんなに歩きづらくなくてよかったよね。ひろちんに話したらケーブルカー乗りたかったといっていました。晴れた日に登ってきれいな海を写して送るね。
この日は16000歩で56階でした。
また来てね
投稿: ひろちん | 2016年3月21日 (月) 23時51分
ひろちんへ 不安を持ちながら達成するのが面白い。何時まで歩けるかな?
投稿: 江戸川風景4 | 2016年3月22日 (火) 06時19分