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2018年1月28日 (日)

友の訃報

友が亡くなった。旧水戸街道沿いで100mと離れていなかった近所に居住し小学校3年生の頃からよく遊んだ。彼の家はビール、食品、雑貨の卸とガソリンスタンドを営業していた。

手先が器用で模型を競って作った。潜水艦やA-1エアープレインを組み立て風呂に潜らしたり広場で飛ばたりして自慢しあった。彼は長じてもラジコンの飛行機を操縦し隠居してからも鉄道のジオラマや帆船の模型を作っていると聞いていた。お別れに行った斎場に思い出の品として飾られていた。

羨ましかった事は小学生は映画は滅多に行けなかったが彼は上映映画が変わるたびに見に行っていて錦之助や東千代之介の話を良くしていた。

彼の家に皆が良く遊びに行ったのは荷物を運ぶトロッコが有ったからだ。乗って遊んでいる内は良かったが其の内脱線させるのを楽しんだ。石を置いてやる方法はショックが大きく音も大きく好まなかった。金属の20㎝位の細い板を線路に頭を乗せ線路から外すように置くと金属の板の通り軌道を外れて通るのが大きな音を立てずに脱線するのが面白かった。

倉庫が5棟ありカクレンボも何処でやるより面白かった。後で商品を汚して怒られることも有った。

男4人女3人兄弟のバッチで直ぐ上の兄さんからは8歳離れていて当時その家で遊んでいる子供は我々だけでのびのび遊んだ。中学へ行ってからは学校が違ったのであまり行き来はなかった。

彼の父はPTAの会長をしており名を捨五郎といった。校長先生の名は捨治で今では考えられない名前のコンビだった。

私が家を継いで兄が留学から帰り住居と職が見つかる間、我が家で暮らしていた。我が家とも商売の取引が有ったので親が外交さんに言ったのだろうか兄が帰国する前に当時は付き合いが途絶えていた彼が我が家に来て彼の家に下宿しないかと言ってくれた。トロッコの線路も其の儘倉庫の建物も其の儘社員の方達の宿舎もそのままの大邸宅に父母と友達の三人で住んでいるところに居候することになった。会社は6号線沿いの更に広大なところに移り子供の頃思う存分遊んだところの母屋に高齢の親と三人で暮らしていたので幾らか枯木位の存在になったろう。

彼はスタンドの責任者をやっており結構ふらふら飲み歩いて門を閉められ電柱伝いに門を乗り越え雨戸を外して帰って来ることも有った。直ぐに行動を伴にするようになった。共同生活も1年くらいで私は家に戻り終わった。色々と教わった。

彼はその後団地の雑貨店のオーナーから業種を変えイージーオーダーの紳士服の店の店主として繁盛していた。住まいも団地の近くに移った。彼は私より少し前に商売を止めた。

近年はPCにも詳しいので一から教わった。電話で1時間にわたり延々と作業を指示してもらいながらやっと操作したことも有り根気よく教えてくれた事を感謝した。

遠くに引っ越してからも月に一度は処方箋を持ってきてくれ健康を確認していたが私が3年前に商売を止め電話で近況を聞くことがあったがこの一年は連絡を怠った。

去年の12月に意識のしっかりしている内にと奥さんから連絡を貰いびっくりした。この5年、年一回一泊旅行をしているという友にも連絡した。その旅行には私も誘ってもらったが何時も家内との旅行と重なり参加できなかったが一昨年は一緒出来楽しかった。その旅行の時、近くの席の人にお宅さんたちは小学校の友達でしょう、楽しそうですねと言われた。

面会室に車椅子で現れた友は無表情で言葉も出なかったが喜んでいる様子であった。

年が明けどうしているだろうと気にしながら寒さに縮こまって居る処にご子息から訃報の知らせがあった。

小学校の友もそれぞれ良い奴らで何らかの良い影響を与えてくれている。友をなくすことは普段の行いの見本を失う事であり残念なことである。

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コメント

淡々と切々と思い出の数々を書かれるその気持ちをお察しします。
いい友人を持たれてお互いに幸せでした。
ご冥福を祈ります。

佐平次さん 有難うございます。 残された家族の寂しさ変化も大変でしょう。体が利かなくなってからの私達の生活も思いやられます。

びっくりしたよ。処方箋を思い出します。
にしても、お父さんの悪さの質をひろちんは受け継いだのだと感じたよ。これから先も心配です。。

ひろちんへ お父さんのように真直ぐ大きくなれば心配ない。

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